エッセイ 雑文~患者は喪失体験をする~

阿岸鉄三 楡刀会(北海道大学第一外科同門会)会報2016:p21-22

 

この3年間ほど、自らの喪失体験に対する反応に悩んでいる。喪失体験は、例えば、長年連れ添った連れ合いに先立たれなどといったことである。国立がんセンター名誉総長垣添忠生医師は、妻に先立たれた後に、うつになり、回復した経験を本に書いている。

わたしの場合、反応は、勿論、精神的、そして肉体的、さらに、スピリチュアルにも及んでいる。自らの反応を楽しみながら観察している、ちょっと奇妙な自分がいる。喪失体験に反応している自分、反応を認識している二人称的存在、そしてそれらを観察している三人称的存在に気づいている(awareness)。離人症的傾向というのだろうか。

2013年1月に脊柱管狭窄症(頚髄症)で手術をうけたが、後遺症で、現在も手に知覚障害、脚に歩行障害がある。右下肢筋の痙性麻痺によるものらしい。安心・安全、そしてなによりも、人ごみで衝突されないように、杖を使用して歩行している。歩きスマホが、恐ろしい。でも、ヨッチョラヨッチョラ独りで飛行機に乗り札幌へ行き墓参りもし、新幹線に乗って大阪の学会に出席したりもしている。

頚髄症は、脊柱管がその部では比較的広いので症状がでにくく、で出すと一気に諸症状が現れるというがまことにその通りであった。いろいろなものを数か月の短時日のうちに、喪失した。

今から考えると2012年(78歳)秋頃まで、心身的にも、スピリチュアルにも、無茶苦茶、いわゆる元気であった。自分でも理解不能というくらい元気であった。自分で、加齢による変化をまったくといっていいくらい感じていなかった。歩くときは、ほとんどの人を追い抜いていた。

2000年に、東京女子医大を定年になったが、約70ある著編書の多くは、定年前後の仕事である。IBMからでていたvia voiceという音声を字に変換するソフトのお蔭でものすごく原稿が書けた。いくらでも、書ける気がしていた。大学勤務の医師としては、そこそこの仕事をしたと自己評価している。連日、長時間パソコンを扱ったのが、体位的によくなかったのだろうか。

一方で、アウトドアスポーツを中心とする遊びもよくした。それができなくなったのが、喪失である。

週末を待ち兼ねて、本栖湖に近い別荘へ行く。あきれた妻が同行しなくなったので、自分で出鱈目の料理をして食事の用意もした。山野草を食べ、自己流のピザを焼く。独りで、BBQ。電信柱の太さの庭の木をチェインソーで倒し、斧をふるって、薪にして暖炉にくべる。富士山一合目の庭は、火山灰地なので、近所の酪農家から買った牛糞を、自分で一輪の猫車を使って運び、十坪ほどの畑を作った。ウサギ・鹿から畑を守るため、鳥獣防護ネットで蚊帳様のものを自分で作って木からつるした。当然、庭の樹木の手入れをする。朝から夕方まで、外で作業する。これが、飯のタネならつづけられない。好きだから、勝手にやれる。札幌の馴染みの居酒屋の女将に、真っ黒に日焼けしたのを野良仕事でもやっているのと、尋ねられたこともある。

万歩計を腰にぶら下げて、本当に、ほぼ毎日10,000歩を歩いた。切っ掛けは、55歳のときに、医師に限界型高血圧のあることが指摘されたことであった。食事制限・運動なら、自分でやる、ひとに指示されるなんてマッピラ。。。

マウンテンバイクで富士山麓を駆け巡り、自己流の水彩画を描く。外国の学会に出席するたびにも絵を描いた。そのうち、絵を描くために学会へ行くのではないかと、自問したこともある。

スキーは、札幌生まれなので幼いころからやっていた。毎冬、2-3回は、ニセコにスキーに行っていた。カナダ・ウィスラーで、ジェットヘリで山の頂まで飛び、氷河を滑るスキーをしたこともある。バンフ・タホ湖・アスペンも素晴らしかった。青木ケ原樹海の中の新雪をカントリースキーで歩き回った。

67歳頃から、ヨットを始めた。葉山で、裕次郎灯台を見ながら、ディンギーを操れるようになった。極め付けは、地中海のミノルカ島でのセイリング。8月末の季節外れのリゾート地の赤い屋根・白い壁・3-bed rooms・プール付の貸別荘は、週1000ドルほどのrental feeで滅茶安かった。

アラスカサーモンのフィッシング、New Zealandで50cmのブラウントラウトを釣り、フレンチレストランで料理してもらったこともある。Minnesotaに12,000の湖があると聞き、釣りに行き、フロートのついたセスナ―に乗り、湖を釣り渡った。案内についてきた現地のインディアンの若者が釣りたての魚をオールを俎板にしてさばきフライを作ってくれた。そして、John Wayne coffeeを作ってくれた。実は、カップにコーヒーの顆粒をいれただけのフィルターを使わないものだった。

South Carolinaでkayak。New Caledonia, Fiji, Palau、Florida,勿論、沖縄でsnorkel。ちなみに、当時のパラオ大統領の奥さんは、透析患者で日本へ来るとわたしが勤務していた病院で透析をしていた。そんな縁で、4回もPalauに招かれ、赤坂の迎賓館で一緒に食事をしたこともある。

今考えると滅茶苦茶忙しくて、だけど滅茶苦茶楽しかった。疲れた感じもなかった。

しかし、2012年の秋も深くなって、歩行の際にふらつく感じがでてきた。なんだこれ、自分で系統的神経疾患と考え、診察して貰ったら、脊柱管狭窄症(延髄症)で、手術適応と分かった。2013年1月に、整形外科で手術をうけた。しかし、後遺症が残った。杖なしでも歩けるが、安心安全のため杖を突いて、のろのろ・のたのたしか歩けない状態である。街を歩くとみんながわたしを追い抜いて行く。字も書け、箸を使えるが、両手に知覚障害がある。そして、術後に睡眠障害がでてきた。ベッドに入ったらバタン・グーだったのに、、、そして、頻尿である。それまで、ピンピン元気一杯でなんでもできるのが当然だったのが、できないのである。まことに、不如意の生活とは、このことか。。。世界が変わった。

身体的障害という喪失体験を、自分で受け入れられず、適応不全から睡眠障害が発現しているらしい。なによりもベースに加齢があるのだろう。そして、自分の身体能力でできることと、できないことの判別ができない。老い先短い余生が不安である。よたよたながら、週に2日ほどは、一万歩は歩けるし、札幌の同期会には一人で行ける。月十数回通うプールでは500m泳いでくる。だが、不安感が常に伴う。不眠症を診てくれている医師は、精神科的には、正常の反応だというけど。。。

以前は、年齢不相応の元気さ加減だったのとは自分でも思う。だけど、こんなつもりでなかったと思う。自分こそは、ピンピンコロリと、根拠もなく思っていた。ピンピンコロリの確率は、5%だそうだが。。。多くの人が20年前に経験した男性の更年期症候群が、いま、まとめて発症しているという医師の診断もあった。

なんで、やたらと元気だったのだろうと思う。医療気功と称して、患者に気功をしていて、自分にも気が巡ってくる感覚があったが、そのせいだったかとも思う。

神様は、ケチクサイ。お前にだけ、楽しいだけの人生を送らせる訳にはいかないと考えているに違いない。その意味では、平等か?人並みに苦労も経験せよかあ。。。人生は悩み多いものだということを実感せよってかー。でもなー。。。

でも、なにか得たものもあるような感じもある。多くの医者は患者の喪失体験について、その存在すら気づいていないのではないだろうか。恥ずかしながら、わたしも知らなかった。すべての患者は、それぞれの喪失体験をしているに違いない。患者の喪失体験に医師はいかに対応すべきだろうか。

でも、82歳になって、多くの人に、“ずいぶん元気になった”といわれるようになった。喪失体験への反応から脱しつつあるのでないかと、自己診断している今日この頃である。

だけど、コンチキショウ。