透析の非導入・中止問題

都内のある病院で透析の非導入・中止の結果、相当数の患者が死亡しているらしいことが騒ぎを起こしている。わたしは、1960年代初めから透析医療にかかわってきたこともあり、私見をのべることにした。透析の非導入・中止とは、整理すれば、医学的に透析をすれば助かる、すなわち生き続けられると判断されるほど重症な腎機能障害の患者さんに対して、近い将来死にいたることが分かっていながら、いろいろな周囲の状況から透析をしないというのは、どういうことなのかという問題である。

ここにのべるのは、あくまでも、マスメディアに報道されている情報の限界内でのことである。調査が進行中ということで、日々状況・報道内容の動揺がある。

医療関係者を含むコメンテーターには、根本的に、透析は、ときには、単なるという形容詞のつく生命延長のための医療技術であるという認識が欠けているようである。(血液)透析は、1960年代半ばには急性腎不全の患者に対する有用性が確認されつつあった。すなわち、当時は一般に人工腎臓と呼ばれていたが、数回の透析で患者自身の腎臓の機能が回復し、透析が必要なくなることが知られてきていた。一方で、1960年代末に、腎臓の機能回復が期待できない慢性腎不全の患者さんに対する透析の繰り返しの試みが始まった。当代風にいえば、科学的根拠のない、莫大な費用のかかる医療の始まりである。結果は、案ずることなく大成功であった。慢性腎不全の患者の一年生存率は、それまで10%程度といわれていたのが、現在では90%以上である。単なる生命延長医療の、延々たる継続である。現在では、週に3回、一回45時間の透析の繰り返しをする。実は、この方式は医学的にみて最適な条件ではない。医学的条件、医療経済的条件、患者の利便性などの妥協の結果,仮に定められたものである。

生命延長となると、ほかの医療の領域、たとえば、救命救急医療などと同等に考えることができるようになる。救命救急医療においては、最近は、一定の手続きのもと、気道内挿管などを含む蘇生術の回避が行われているし、尊厳死協会が進めているような人間の尊厳を求めて、単なる生命延長のための医療行為は拒否する考えもある。われわれの住む当代の日本社会でも、そのような考え方が受け容れられつつあるのである。

 透析では、非導入でも、水・カリウム摂取制限をすれば1ヶ月くらい、あるいは中止でも23週は生存可能とされるが、経過の緩徐さが気管内挿管・呼吸器装着に比べて生命延長に及ぼす効果を不明瞭にしているのかも知れない。透析の専門家といわれても、単なる生命延長医療という考えを受け容れたがらない人もいる。

一定の手続きとしたが、多くは、最小限複数の構成委員による院内委員会で、構成委員としては関係医師・看護師などのコメディカルスタッフ・可能であれば弁護士などの外部の第三者などの参加を求めるとし、当然、患者、もし患者に状態によって正常な意志表示ができない場合は、患者の普段の生活・思考を理解している家族の出席のもとで同意を得ることが、学会のどのガイドラインなどに明記されている。

このガイドラインの強制力・拘束力について、筆者の見解をのべる。結論をいうと、筆者は絶対的な強制力を持たないと考えている。単純にガイドラインは文字通りガイドラインであって、法的な強制力をもたないと考えるべきである。ガイドラインには従わない場合の罰則はないのは当然である。ガイドラインの内容の表現は、勧められる、べきであるというようなのが一般的である。学会内部の相互了解というものと理解している。強制力を持たせるなら、ガイドラインという呼び方を止め、内容の表現も強制力のあるものにすべきである。さらに提言となれば、拘束力・強制力がさらに弱まる。

このような状況では、医療者側と患者側の同意という表現が使われるが一般的であるが、筆者は、基本的に同意はあり得ないと考えている。同意は、双方に相当程度の、同等の知識と理解力があって初めて成立すると考えられるものであり、通常では有り得ないからである。十数年前の朝日新聞のインフォームドコンセントに関するアンケート調査の結果、すなわち、医師の90%以上は、十分な説明をしたと考えているのに、患者側の80%以上がなんだかよくわからなかったが、同意し、捺印したというのが、実態を現わしている。せいぜい、納得・了解・了承であろう。